日々のあれこれーのんびりくらし

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終の棲家で花遊び❀

蘇鎮轍 著「百済武寧王の世界 海洋大国大百済」を読んで

ひとり古代史愛好会も来月いよいよ海外遠征(笑)

たんに、一人で韓国旅行するだけなんだけど、

せっかくなので百済武寧王陵を見てこようと思います。

 

1991年に発見されたという武寧王陵。墓誌は当時の歴史を示す貴重な資料です。

なにか、勉強しなくちゃなーと思っていたら。

 

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図書館で見つけたこの本。面白かったです!

 

反ヤマト中心史観の本かと思って読んでいくと、こちらの本の説のほうが納得できてしまうことも・・・

引用が大変なので、ざっくりまとめて著者の意見を青字で示しますね。

(王や、天皇に対して死去という文字を使っていますがご了承ください。崩・薨はここでは重要なのであえて私は使いません)

  

武寧王は、日本書紀では、「百済の加須利君が昆支王を倭国に質として送る時に妊娠している婦人を与えて、その婦人が筑紫で産んだため嶋君と名付けられた」と言われています。日本書紀ではその時に送り返されたとあるけれど、一説にはそのまま倭国にいたともいわれています。百済に戻り即位し、高句麗を撃退し百済に安定をもたらした王様です。

 

日本書紀などでは、日本に対して百済高句麗の侵入に対して援助を申し入れる場面が多く、百済に来る使者も「貢・献」の文字が多く使われるし、王子も「質」と思われていますが、著者はその見方に対して反論しています。

 

①隅田八幡鏡の銘文の解釈で通説では、「大王の御代に、男弟王が意紫沙加宮にいたとき、斯麻が大王の長寿を祈願するために開中費直と穢人今州利の二人をして白上銅二百桿で制作して献上した」としています。

(製作年の「癸未年」の候補もいくつかあったりしますが、男弟王は男大迹王(継体天皇)、斯麻は嶋君(武寧王)という説もあります)

 

が!著者は「献上」ではないとしています。

もともと、鏡・剣などは「権威の象徴」「神器であり信任付与の道具」であって、献上することはないと。

 

ここで、武寧王陵の墓誌に「崩」の字が使われていたことを取り上げ、日本書紀の「天皇・崩」「百済王・薨」は加筆であり、武寧王天皇の侯王としての薨御ではなく、大王としての崩御とみるべきではないかと関係を問い直しています。

むしろ、武寧王百済に戻って即位したのち、下賜したものの一枚では?(二百桿も使って献上する一枚を作るのか)

 

確かにねぇ。書記のほうが後から作られたもので、墓誌はその当時のものだし・・・

日本書紀の成立時期には百済は滅んでしまった後で、旧宗主国であった事実を逆転させて日本に臣属する国に書き換えたいというのはあったかも。百済はその後半島を統一した新羅に滅ぼされたから「三国史記」にも矮小化されて描かれても仕方ない?

 

②七支刀は百済王の献上という通説にも反論。

銘文の「泰□年」という元号東晋の太和(369)年に推定して、書記の神功紀の七支刀献上(372)年と合わせている。

 

百済は中国の元号を使わないこと、銘文が下行文であるから献上品には当たらないこととし、神功紀の七支刀献上とは切り離して考える。

百済王は旨に刀を与え、旨は倭王として信任付与されたと勇んで倭に向かったのでは、と。 

 

では、その旨って誰かというと。

 旨は百済王の侯王として日本にいたのではないか。「倭の五王」の先祖ではないか?と。

余句(近肖古王)、余慶(蓋鹵王・加須利君)、余昆(昆支王・軍君)のように、百済の王族は単字名を持っている一方で、君名も持っている。

 

倭の五王を無理に天皇家にあてはめようとするから無理があるのではないかと主張しています。

 

倭王武の上表文

倭王「武」は雄略天皇とするのが一般的ですが、著者は倭王武武寧王としています。

倭王武が478年に宋の順帝に送った上表文が、雄略天皇に合わないと。

上表文の中の高句麗の無道に対して、反撃しようとしたが父と兄が急死して喪に服するために中断し、今時が来て高句麗を撃つと誓っているのですが、雄略天皇の父(済・允恭天皇?)は453年に死去していて、兄(興・安康天皇?)も456年に死去している。

これが、もし、倭王武武寧王なら、475年に高句麗によって殺された蓋鹵王に合うし、上表文が472年に蓋鹵王が北魏に送った上表文にも似ていることからも自然に思える。

 

武寧王という諡号倭王「武」と521年に梁から授与された「寧東大将軍」からとったもの。

 

ひゃー、とここでわくわくしましたねー。

479年の「鎮東大将軍」や502年の「征東大将軍」という倭王武の称号について、雄略天皇の死後に与えられたものとするよりは、在位中の武寧王に送られたものとするほうがすんなりします。

倭王武が、雄略天皇ではなく武寧王なら、武に与えられた将軍位が示す領土ってすごく大きい。ここの支配権(たんなる称号だけど)が認められたとすると、百済って実は大きい国だった?

 

 

ここで、百済は常に高句麗新羅に圧迫されて、日本に従属していたようなイメージですが、本当にそうだったのかの検証もありました。

 

「梁職貢図」から、百済が実は大海洋国で海外領土を持っていたということがわかります。

遼西・晋平郡とはどこかという検証をし、なんと晋平郡は現在の広西省壮族自治区にあるとしています。この郡の中心は「百済墟(百済城址の意味)」と呼ばれる小さい村で、その地域を示す「大百済」という音は中国音で読まず、「Daej bakcac」と韓国語に近い音で読むそう。

著者がこの中国の田舎の小さな村を訪れて、百済という文字があふれていることに驚いたと言っています。

日本にも「百済寺」など「百済」の文字のつく地名はありますが、その比ではないと。

 

この地域を「魏志倭人伝」の黒歯国ではないかとも。

(洛陽の「黒歯常之」の墓誌に、黒歯氏は百済王族の一員で分封されてこの地に赴き王となり姓としたとある)

 

倭王の系列を百済の侯王として百済から任命されて倭に来ていたとし、

天皇家とは違うと言っているものの、

では倭王はどこにいたのか、については断定していませんが、

(それに触れるとこの一冊では収まらないから?)

なんだかこの本の内容って妙に説得力があって納得していまいました。

 

武寧王の未盗掘の墓から出てきたものと、後から作ったとされる書記では信用度がねぇ。

書記は不比等が中心となって都合よく作ったものだし・・・

 

「○○は実は□□だった!」というようなトンデモ歴史本は多いけれどそんなではなかったです。

 

古代史で日本(倭?)と百済の関係って日本に従属していたという通説に縛られてしまうけど、そういった目で見なければ案外もっと謎が解けたりして。